藤原新也の『鉄輪』を知人が貸してくれた。『かんなわ』と読みます。僕が暮らす別府の町のひとつです。表紙折り返しに「まだ何ものも手にしていない者の、不安と底無しの自由」とあります。著者はじめての自伝小説なのだそうです。
本の中には僕も好きな「谷の湯」という温泉が登場したりします。だから藤原新也さんの16歳のころを追体験している気分になります。
けっきょく「まだ何ものも手にしていない」僕は幸せなのかもしれないなあとふと思いにかられる良い本でした。
もちろん、「でも」とか「だって」とか否定で会話を受けることは相手の心証を悪くするしかないのでやめましょうとは幾度となく聞かされているのである。幾度となく、ということは性懲りもなく使っているということなのだろうが。
今日は初対面の方にもう一つ接続詞ではない、相手の会話を受けて使う「だから」という発し方も止めましょうと諭された。じゃあどんな受けをしたらと尋ねると「え〜と」でいいのてはないか、と。
なるほど「え〜と」と言おう。こうして私は人間になっていくのだなあとこれからの時間を人間として生きたいと願う私にとって有意義な助言をいただいた一日であった。ありがとうございます。
年齢を重ねてしまうと、好きになることに臆病になる。好きになっちゃいけないんだとアゲインストの風にあたってしまうのだ。けれども還暦も過ぎた私は、だからこそ好きになって身も心も焦がしたいとリミッターを外してみたくなるのであった。
秋だな
ぁ〜。