『鉄輪』

藤原新也の『鉄輪』を知人が貸してくれた。『かんなわ』と読みます。僕が暮らす別府の町のひとつです。表紙折り返しに「まだ何ものも手にしていない者の、不安と底無しの自由」とあります。著者はじめての自伝小説なのだそうです。

 本の中には僕も好きな「谷の湯」という温泉が登場したりします。だから藤原新也さんの16歳のころを追体験している気分になります。

 けっきょく「まだ何ものも手にしていない」僕は幸せなのかもしれないなあとふと思いにかられる良い本でした。
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いい風呂の日


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昨日は11月26日、いい風呂の日だった。なので、テルマエ展開催中の大分県立美術館(OPAM)に足を運び、この期間限定の別府八湯温泉道のスタンプを押し、テルマエ・ローマの講演を聴いた。

 シーザーもアントニウスクレオパトラにメロメロになったそうである。私もメロメロにさせてくれる絶世の美女にお会いしたいものだなあとローマ帝国の盛衰の歴史を聴きながらぽや〜んとうつらうつらしながら、それでも、統治権者の領土拡大への欲求の強さに時代を経ても変わらない業というようなモノも感じた。前知事も聴講に訪れていた有意義な講義であった。

 

 

うつくしい人

西加奈子の小説である。登場する坂崎というリゾートホテルのバーで午後1時から午後7時まで働く40代を超えているのに見習いみたいな仕事をしている男のことが気になる。自意識過剰な主人公の女性から最初みっともないと思われ、たしかにスラスラっと仕事をこなせない男。じつは私もそうなのではないかと、そしてそれはそれで「私」らしくていいのではとも思う。へっぽこな自分でいたいなあと、いや、事実そうなのだからと思ったら気が楽になった。
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え〜と、

もちろん、「でも」とか「だって」とか否定で会話を受けることは相手の心証を悪くするしかないのでやめましょうとは幾度となく聞かされているのである。幾度となく、ということは性懲りもなく使っているということなのだろうが。

 今日は初対面の方にもう一つ接続詞ではない、相手の会話を受けて使う「だから」という発し方も止めましょうと諭された。じゃあどんな受けをしたらと尋ねると「え〜と」でいいのてはないか、と。

 なるほど「え〜と」と言おう。こうして私は人間になっていくのだなあとこれからの時間を人間として生きたいと願う私にとって有意義な助言をいただいた一日であった。ありがとうございます。
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好きになっていいの

年齢を重ねてしまうと、好きになることに臆病になる。好きになっちゃいけないんだとアゲインストの風にあたってしまうのだ。けれども還暦も過ぎた私は、だからこそ好きになって身も心も焦がしたいとリミッターを外してみたくなるのであった。
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尻ならびの湯


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かつての栄光の歴史にふと思いが至ったのである。本日はベップアートマンスのプログラム『入浴しない温泉ツアー』に参加。ポンプも撤去されもう温泉を汲み上げることもなくなったと思われるまちなかの露天風呂である。逸話を思い出し懐かしい気分に浸らせていただいた。